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小 次の日に投稿しました 2018-11-10 13:48
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S17 周極
曹操と郭嘉
郭嘉は38歳(207年)の時、病を得て死去した。赤壁の戦いは208年のことであり、それより前に死去したことになる。
赤壁の戦いの後曹操は「郭奉孝在,不使孤至此」(郭嘉(字は奉孝)がいてくれたらこうならなかったのに)と述べ、「哀哉奉孝!痛哉奉孝!惜哉奉孝!」と郭嘉の死を嘆くほど。曹操の幕僚の中でも際立って若く、また政治面・軍事面いずれにおいても卓越した才能を持った数少ない天才だった。
一方の郭嘉も当初、一度袁紹の元を訪れるも、その人となりに失望し仕官しなかった。後に、荀イクに推挙され曹操と会ったときには「私が仕えるべき人だ」と喜んだという。それからはその思いに答えるかのように大活躍を見せる。
病が二人を隔てたので悲恋ですね!
追記:曹操が認めた天才というのは少ないように思います。戦で戦略をたてることができて、内政も十二分にこなすことができる。さらに周囲の情勢から正確な判断をくだす軍師としての才能、どれかひとつに才能を持った人は曹操のもとには多くいましたが、これらすべてとなると魏では郭嘉、司馬懿、あとは曹操その人くらいであるように思います。司馬懿はその野心(表現が適切でないかもしれませんが)により遠ざけられたため、曹操から見れば、唯一、真に自分の後継足りうる才能であったはずです。もし郭嘉が長生きしていれば、三国志の歴史は違ったものとなっていたことでしょう。だからこそ曹操は郭嘉を寵用し、郭嘉もまた万能の人曹操に惚れ込みその才能を発揮した。惜しむらくはその短命であったわけで。
ええと。そんな感じで、天才であった郭嘉に曹操は(稀有なことながら)期待していたし、郭嘉は万能の人曹操に惚れ込みました。これほどに仲間として天才同士の邂逅と呼べるものはなかなかないかと。
[この投稿は 周極.s17 様から 2018-11-10 18:09 に編集されました ]